■名前 佐藤耕平(さとうこうへい)
■所属 ZERO-1
■生年月日 1977年9月21日
■出身地 東京都江東区(小島聡と同じ)
■星座 乙女座(これも小島聡と同じ)
■血液型 B型
■身長 193cm(本によっては191と書いてあるモノも。どっちが本当なの?)
■体重 120kg
■趣味 スニーカー収集(東スポによれば雪駄も愛用しているらしい)
■足のサイズ 31.5cm
■デビュー戦 2001年6月14日、大阪城ホール、VSグレッグ・ベイレス(真撃ルール)
■入場曲 「VIVA!」 by bond(元ネタはビバルディ「冬」第一楽章)
■紙テープの色 金+黒or黒+黄色(金の紙テは高いので予算に応じて決めて下さい・笑)
■獲得タイトル NWA UNヘビー(06年11月11日に崔領二が奪取、現在は無冠)、アジアタッグ(パートナーは横井宏孝)、NWAインターコンチネルタッグ(パートナーは崔領二、高山善廣、KAMIKAZE)
■尊敬するレスラー 金村キンタロー
■ライバル 夜の金村キンタロー
■得意技 ジャーマン・スープレックス(もはや耕平選手の代名詞と言えるフィニッシュホールド。ブリッジの美しさ、角度のえげつなさは絶品)、ポールスター(変形のノーザンライトボム。ここぞという時しか出さない大技で、拝める回数は少ない。意味は「北極星」)、裏投げ、ファルコンアロー、パイルドライバー、ニーキック、ミドルキック(川田選手の蹴りは2トン近くあると言うが、耕平選手のもそれぐらいはあるのではないだろうか。それぐらい生で見た時の衝撃音が凄まじい)
■好きな食べ物 「一二三」のにんにく焼き、砂肝串
■好きなTV番組 題名のない音楽会(渋いな〜笑)
■特技 金○キ○タローを潰すこと
■備考 ハッスルでは滑舌が悪いというスキットで脚光を浴びるようになったが、この声は生まれつきではない。その証拠に2003年頃の試合のVTRを見ると、発音は極めて明瞭である。原因は高岩選手のラリアットを喉元にモロに喰らった所為で、天龍を超えるプロレス界一のハスキーボイスになってしまった。ちなみに手術しても回復は不可能だそうである。
■備考(その2) 浪口選手曰く、性格は非常に豪快だが、服を畳む時は意外にも物凄くきっちりしているらしい。なんでも昔洋服屋さんのアルバイトをしていた時の習い性なのだとか。ちなみに本人曰く、洋服屋でバイトをしていたのは「モテたかったから」という、凄まじく不純な動機だったらしい。
■備考(その3) 密かにゲーマーが多いプロレスラーだが、耕平選手は例外。何故なら、ボタンが二つよりも多いゲームは操作中に混乱してしまうから、というのが理由らしい。よって耕平選手の愛用マシンは、WiiでもPS2でもなく、初代ファミコンである。
■備考(その4) アパッチプロレスの金村キンタロー選手とは呑み友達らしく、二人で同伴出勤している姿を後楽園の近くでしばしば目撃されている。アフターの目撃例も多く、アパッチ軍ブログではしょっちゅう金村選手と呑んでいる姿がUPされている。
■生い立ちから現在まで
1977年9月21日に東京都江東区にて生を授かる。ちなみに大学の同級生だった橋本友彦選手曰く、耕平選手の酒好きはお母さんに似たとのこと。逆にお父さんはビール一口で三日酔いするほどの下戸らしい。
そんな両極端なご両親の間に生まれた耕平選手の子供の頃のあだ名は「ジャンボ」(鶴田さんではない)。金村キンタロー選手の証言によると、初恋のお相手は「ちか子さん」だったそうな。甘酸っぱい青春のメモリーってやつですね(笑)。
学生時代は柔道部に所属していたが、中学2年の時、プロレスマニアの先輩の影響を受けてついにプロレスに目覚める(当時は新日ファン)。その後は柔道部という名のプロレス同好会にまっしぐら。
そんなこんなで大学まで柔道部だったものの、あまりの練習のキツさに橋本友彦選手と共に脱走を図り、新宿二丁目でバイトをしたり(本人曰く「そっちの気は全然無い」との事)して、結局中退。そして当時、最も華やかだった修斗の世界へ大転身。アマチュア修斗でオール秒殺一本勝ちで16人トーナメントを制すという、とんでもない実力を発揮。(※余談になりますが、この当時イギリスに留学していた崔選手が、日本の知り合いから送ってもらった格闘技通信の耕平選手の記事を読み、「こんな化け物みたいなヘビー級の日本人いるのか!?」と驚愕したそうです。まさかこの時、この二人が同じ団体に立ち、なおかつ宿命のライバルになるとは誰も思わなかったに違いない…)
その後プロ修斗でも藤井克久選手に勝ち、2戦2勝と負け知らずだった。この当時、本人は全日に入りたかったらしいが、たまたま挨拶に行ったゼロワンで「明日から来い!」と言われて練習生に。一ヶ月の練習期間の後、2001年6月14日、大阪城ホールでグレッグ・ベイレスと真撃ルール(オープンフィンガーグローブ着用の総合ルールのこと)でついにデビュー。
昔は体が細く「鋼のモヤシ」と呼ばれていたが、2004年3月から三ヶ月間アメリカに修行に行き(ちなみに会社にはほぼ事後承諾、というか勝手にバックレたらしい・笑)、見違えるほどビルドアップして帰国。その勢いで2004年の夏に行われた火祭りでついに初優勝を飾る。
その後は復帰した崔領二と共にNWAインターコンチネルタッグで炎舞連夢を破りタイトル奪取。しかし防衛に失敗し、王者として君臨していたのはごくわずかな期間だった。
2006年2月26日、崔領二をタイガースープレックスで撃破し、NWA UNヘビー級第五代目王者となる。5回の防衛を成功させるも、11月11日に大阪府立体育館で行われた試合で崔領二に敗れ、ついに無冠となる。さらにその後、11月30日に福島で行われた試合で、ワイルドチャイルドのワシントン条約を食らい、左足首の腓骨を骨折。ファンを大いに心配させたが、なんとたったの2週間で骨がくっつき、大方の予想を裏切って2007年1月19日に華麗に復帰。ブランクを感じさせないキレの良さで大谷選手をジャーマンで追い詰め、パートナーの高山善廣選手の好アシストを務めた。
しかしその後、急激に高山選手に傾倒し、高山・横井選手と共にゼロワン正規軍と対立するヒールに転向。言動も不遜なものになり、ゼロワンに対する態度も悪化。ついには試合を無断欠席するまでに至り、同年5月1日、ゼロワンを抜けてフリーになる。
だが、2008年に新日本プロレスとの対抗戦が始まったのがきっかけで、次第に言動が変化し、対永田戦では「フリーでも心はゼロワン」とまで言い切った。そして2009年3月2日、晴れてゼロワンに再入団。同年7月17日、KAMIKAZEとのタッグで、崔&浪口からNWAインターコンチネンタルタッグベルトを奪取。今後の更なる活躍が期待される。
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